雑文林

 

ゆうのこと

ゆうは、私の一番上の姉の長男。
姉も子供ができにくい体質で、長女のまーちゃんができるまでに4年、
まーちゃんからゆうができるまでに6年かかった。
待望の第2子だった上に、男の子だったもんだから姉は溺愛した。
「舐めるよう」にって表現がほーんとぴったりなくらいかわいがって、甘やかした。
姉だけじゃなく、義兄も、まーちゃんも、じじもばばも、私も2番目のお姉ちゃんも
みーんなでかわいがった。
みんなに愛されて甘やかされて育ったゆうは、
甘やかされたのにわがままじゃなく、意地悪じゃなく、
愛された分だけみんなを愛する良い子に育った。
だからますます、みんなにゆうは愛された。
身内だけじゃなくて、先生も、お友達も、近所のおばさん、おじさんみんなゆう
が好きだった。
そして、ゆうもみんなが好きだった。

こなつが生まれたとき、ゆうは中学生になったばかりだった。
ちょうど生意気盛りの中学生の男の子は、小さな女の子に見向きもしない子が多
いと思う。
でも、ゆうは違った。
会えば、ずーっと抱っこ。
こなつのわがままを全て受け入れ、あれで遊びたいといえばあれで遊び、
これが欲しいといえばこれを取ってやり、どんなに手がしびれても、
こなつが降りるというまではずーっと抱いていた。
当然こなつもゆうがだーいすき!
ゆうと会うと、ずっとゆうを独占状態。
まーちゃんがゆうの肩に付いたゴミを取ろうと触ったりしたらもう大変。
「だめー、ゆう兄ちゃんに触るなー!」
と、猛然と抗議し絶対に触らせない始末。
私だけを見てー、私だけと遊んでー、私とだけお話しするのー。
と、たちの悪い恋した乙女(こういうときだけ)に変身する。
だから私もゆうがいるときは、こなつから開放されほんとに楽ができた。
父の葬儀もゆうがいてくれたおかげで供養に専念できた。
ゆうにはほんとに感謝一杯で、私はますますゆうがかわいくてかわいくてしょう
がなくなっていた。

父の新盆が終ったころ、
ゆうの姉のまーちゃんの婚約が決まった。
姉は父の喪中だったし、まーちゃんもまだ若かったので大層悩んだが、
まーちゃんのおなかに新しい命が育っていることがわかり、
大急ぎで結婚式の準備に取り掛かった。
ゆうは、まーちゃんと寄ると触るとケンカしてたくせに
いざ結婚が決まるとほんの少し寂しそうだった。
でも妊娠がわかると、
「こなつみたいな女の子が良いなぁー。」
と、心待ちするようになった。
まーちゃんの結婚式当日、ゆうはこなつの世話に追われながらも、
まーちゃんの写真を楽しそうに撮り、歌を歌い終始笑顔だった。
披露宴も終演に近付き、いよいよ花束贈呈。
義兄は大泣き、姉も大泣き、私も大泣き、夫まで大泣きした。
ゆうはと言うと、床に座り込んで隠れるように、でも号泣していた。
何だかそれを見て、私はほほ笑ましくなって笑った。
そしたら姉も笑って、義兄も笑って何だかみんなハッピーになった。
ゆうにはいつもそんな不思議な魅力があったのだ。

その年の11月、まーちゃんは帝王切開で、愛らしい女の子ひなちゃんを産ん だ。
ゆうは待望の女の子で大喜び。
帝王切開の傷が治りにくくて余り動けないまーちゃんに変わって、
ゆうはひなちゃんを、それはそれはかわいがった。
学校から大急ぎで帰り、泣けば抱っこ、
お風呂に入ればタオルと着替えとまるで父親のように面倒を見た。
姉や、義兄は「第二の父だね。」と笑った。
姉の家は幸せの絶頂にいた。
まさしく、それは絶頂だった。

12月14日の夜23時30分。
ゆうが倒れた。
くも膜下出血だった。

ゆうが倒れてから4日後、姉は私にそれを告げた。
姉は4日間そのことを誰にも告げることさえできなかったのだ。
話すことも、食べることも、寝ることさえできずに姉はいた。
「ゆうが倒れたの。くも膜下出血だけど、手術ができないの。でも、私はゆうは
大丈夫だと思うの。
とっても大きい病院に入れたし、とっても良いお医者さんが診てくれてる。
だからなっち、ゆうの意識が戻ったら会いに来て。」
消え入りそうな声で、一つ一つ噛みしめるように姉は言った。
ずっと元気だった。14日のその日もたまたま学校がお休みだったのでお友達と
遊びに行き、
いつもどうりに帰ってきて、いつもどうりにご飯を食べて、
いつもどうりにみんなを笑わせて自分の部屋に入った。
しばらくしてドーンと何かが倒れる音がし、どんどんと床を叩く音がしたらし い。
姉は踊っているのかなと、最初思ったそうだ。
でもそのとたんに大きないびきが聞こえ、
大急ぎで部屋入ったときには完全に意識がない状態だった。
救急車を呼び、最初の病院で断られたとき姉は
「S病院へ運んで!」と救急車の方に言った。
S病院は姉の住む地域で一番大きい病院で、全国にも同じ系列の病院がある。
幸いS病院はすぐ受け入れてくれ、深夜にも関わらず脳外科の先生が二人すぐに
駆けつけてくれた。
でも手術は既にできない状態だった。病院は低体温療法をしてくれた。
低体温療法は東京でもできる病院が少ない難しい治療法らしいが、
ゆうのようなケースにはそれがいちばん良いようだった。
姉と義兄さえ、一日に5分だけの面会しか許されなかった。
でも、ゆうの回復をみんなで信じた。私は父の墓前にも祈った。
ゆうも本当に良く頑張り、120まで上がった脳圧(健康な人は一桁)を15ま
で下げた。
その時点で、低体温療法がゆうの身体にはぎりぎりのところまできており、
普通の体温に戻した。

それが限界だった。

12月24日、姉から電話が入った。
「もう、私たち以外でもICUに入れるから来てちょうだい…。」
それは、最後の挨拶をしろって言うことだった。
機械だらけのICUで、たくさんの管に繋がれってゆうは寝ていた。
「右の脳が死んでしまったから、もう後は左の脳が心臓を止める信号を出すのを
待つだけです。」
お医者さんは残念そうにそう告げた。
「たった15歳だから、必ず歩けるようにして病院から出られるようにした い。」
ゆうが入院したときそう言ってくれたお医者さんだった。
でも、私たちは最後まで奇跡を信じてた。
だけど…。

12月27日、2時17分奇跡を待つ私たちをの残してゆうは逝ってしまった。

全てが夢のようだった。これは本当に現実なのかどうか私にはわからなかった。

でも、まぎれもない現実だった。

こなつは何もわからず、無邪気に遊んでいる。
ゆうが死んでしまったことを告げると、難しい顔をして
「おじいちゃんと同じで、お空に行ったの?」
と聞いた。私は、何も答えることができなかった。

ただ、泣くだけだった。

(C) Copyright 2001 nachi All rights reserved. Update : 2002/09/24 Goto HOME